みなさん、こにゃにゃちわ。
今日のお題目はこんな感じです。
4,000字以上の長文ですが、お時間ある方はおつき合い願いまーす。
「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越
なすねむさん (id:meshigakuitai) という方、こちらの記事
・いのちをたべる、ということ - めしがくいたい
で初めて知りましたが、なかなか強烈な個性の持ち主ですね。
記事の内容は、
- 有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはず。
- 「食べていいものと食べてはいけないもの」を作るのは勝手な独自ルールであり、真理から遠ざかることになる。
- とはいえ、牛一頭を渡されて「食べろ」と言われても、牛を潰すのは難しい。かわいそうだから。
- けれど「かわいそう」も真理的じゃない。
- それで、真理に近づく経験をするために「生まれたての動物」を食べることにした。
というような感じです。
途中までは、合理的な流れで、多少の異論はあっても、
「まあ、確かにそうかもね」
と言える内容ですが、結論がぶっとんでて最高ですよね。
僕は、生まれたての動物を食べることにしました。
っていうんですから。
で、どうやって「生まれたての動物」を食べたかって言うと、うずらの卵には一パックに一個くらい有精卵が混じっているので、孵卵器を買ってきて、うずらを孵化させて、それをいきなり踊り食いしたっていうんですから、驚きです。
そうして僕は真理にまた一歩近づいたのでした。
ということですので、その真理に近づいた感想をうかがいたいところですが、多分この方の場合、「真理に近づいた」という行為自体が重要なところで、「真理に一歩近づいてこんな気分になった」というようなことには関心がない方なのかもしれません。(勝手な臆測なので、違ってたらごめんなさい)
でも、そういうところも含めて、なんとも「超越」してる感じが素敵な方だなと思います。
うずらを孵化させてそのまま食べるのは難易度が高いですが、ベトナムやタイでは、孵化前のひな入り卵をゆで卵として食べる習慣もあります。
(有精卵が当たり前だった昔の日本の人は、そういう卵を「当たり」といったとか)
このくらいなら、比較的やりやすいと思いますので、「いのちをたべる」という真理に近づく経験を得るため、みなさんもいろいろ挑戦してみてはいかがでしょうか(笑)。
自分で絞めて食べたことありますか?
ぼくも、なすねむさんと似たようなことを考えています。
肉を食べるのに、自分で絞めたことはないな、ということです。
ぼくの場合、普段はだいたい菜食ですませていますが、宴席などで出されれば、なんでも食べますし、外食のときにもあまりこだわらず、適当に肉・魚も食べてます。
けれども、いわゆる「害」虫のたぐいを殺したことはあっても、魚を釣ってきて生きてるままをさばいたこともないに等しいし、ましてや鳥や獣を絞めたことはありません。
昔ネパールに行ったとき、山歩きをしていると村の人が、いかにも「今絞めたばかり」といった鶏の足を持ってぶらさげて、
「ちょうど絞めたばかりなんだけで、食べるかい?」
といった感じのことを、にこにこと笑顔で言われたことがあります。
到底食欲が湧く状況ではなかったので、
「あ、いや、今ごはん食べたところだから、いらない」
とか、適当なことを言って誤魔化したのを思い出します。
その同じネパール旅行のときには、インドにつながる平野の街をバスに乗って通りかかり、店先に豚の頭がどーんと並んでいるのを見かけて仰天したりしてましたが、それももう二十年も前の話。
その後、いろいろ肉食について見聞きし、考えているうちに、一度は鶏を自分で絞めて、一羽丸ごとをさばいて料理したいものだと思うようになりました。
ぼくの場合は、なすねむさんとは違って、「やるぞと思ったら即実行」のタイプではないので、考えているだけでなかなか実現しませんけれど。
ちなみに、二年ほど前にマレーシアに住んでいたとき、近所のスーパーに行くと、鶏が丸ごと冷凍で売ってるんですよね。
それでそのときは、一羽を丸ごとゆでてから、解体しいしい、適宜煮込んだりしながら、数日かけて一人で完食しました。
ですからあとは、
- まず締める。これが最大の関門ですね。
- そして、湯をくぐして羽根をむしるのかな。羽根をむしるのが大変そう。
と思って検索したら、こんな記事もありました。
・初めて「鶏」を絞めて屠殺し、食べるまでの作業をしてみた。-自らの手で命を頂くということ。 - よねすけ、隣に突撃するってよ。
冷凍チキンとは違って、絞めたあとに内蔵も出さないとならないですね。でも、それはなぜか、中学か高校のとき、理科の授業の解剖でやったような気が......。
今回こういう記事を書いていて思ったのは、いずれ絞めるときには、ひよこから育てた鶏を、神からの授かりものとして、感謝しながら締めたいものだということです。
アイヌが子熊を育てて大きくし、その魂を神の国に送り返す、イオマンテの祭りを思い起こしながら。
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ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか
さて、なすねむさんは記事の冒頭で、
有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはずです。
(唯一例外的に、人間を食べてはいけないというルールは合理的だといえます。)
と書いているのですが、この
「人間を食べてはいけないというルールは合理的」だ
という考え、みなさんは、どう思いますかね?
ぼくには、食の対象を考えるとき、人間だけを別に扱う、ということが特別に合理的だとは思えません。
「人間は食べてはいけない」ということも、「植物はいいけど、動物はだめ」とか「牛はいいけど、鯨はだめ」とかと同じで、単なる「独自ルール」ではないでしょうか?
「人間を食べたりはしないほうがいい」ということなら、もちろんぼくもそう思います。
けれども、人類の歴史の中で、人肉食という文化は現に存在してきたわけですし、自分の文化の視点から、そうした文化を「おかしい」ものと判断してしまうことについては、心情的には理解できますが、そこに「普遍的な合理性」があるとは思えません。
一方で、「人間を食べてはいけない」というタブーの存在自体には、そのタブーを共有するコミュニティにおける合理性があることも、間違いのないことでしょう。
みんなが「人間を食べてはいけない」という価値観を共有していれば、「他人に食べられてしまうかもしれない」という恐れを感じる必要はなくなります。これが合理性というものでしょう。
タブーやルール、あるいは法律として、共有される価値観には、こうした意味で、そのコミュニティ内で合理性があるのは当然です。
けれども、その合理性は決して普遍的なものではありえず、「コミュニティ内の独自ルールにすぎない」ということを、しっかり押さえておくことこそが、一段高い意味で、合理的で真理にもとづく立場なのではないでしょうか?
ぼくたちが「普遍的」だと思っている価値観は、ほとんどの場合、さまざまな意味で優位にある文化集団の価値観を「高尚」で「普遍的」だと勘違いしているのにすぎないのであって、実際にはそれぞれの文化集団、それぞれのコミュニティごとに、価値観の違いがあるのは当然であり、
「どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではない」
ということこそが、文化人類学的な研究を通して明らかになった、21世紀を生きる我々が共有すべき「普遍的な価値観」ではないかと思うのです。
ここで「普遍的な価値観」と呼び、「すべての立場には、その立場なりの正しさがある」という言葉で表す文化相対主義は、いわば認識上のメタな立場の言明にすぎませんから、これを否定する立場も当然ありえます。
ありえますが、それは結局、利己的な「自文化優位主義」であり、論理的に一段高い意味での、「合理性」や「普遍性」そして「真理性」からは程遠いものに思えます。
......と、ついつい生真面目な文章を長々と書いてしまいましたが、この辺りの視点を共有しておかないと、「民主主義の行方」とか「資本主義の未来」とか「人類の幸福」といった大上段に振りかぶった話がなかなかできませんので、ややこしくて、おもしろみのない文章かもしれませんが、気にせずネット上で公開してみることにします。
で、今回の記事の題名に使った言葉にそくして、今回の内容をまとめてみますと、
- 「人間を食べてはいけない」といったタブーには合理性がある。
- しかしその合理性は、コミュニティ内の合理性でしかなく、普遍的なものではありえないという限界がある。
- コミュニティごとに立場の違いがあり、それぞれに正しさがある上に、実のところ、個人ごとに立場の違いがあり、一人ひとりに正しさがある。
- 生物学的にはぼくらは、地球人として共通の体を持ち、共通する価値観を持ってもいるが、文化的には、一人ひとりが異星人であるといっても差し支えないくらいの多様性を抱えている。
その多様性を楽しみながら生きることこそが、21世紀に生きるぼくたちの特権なのではないか、などと思う今日このごろなのです。
てなところで、この記事はおしまいです。
矢鱈に長い文章を最後までご精読ありがとうございました。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬