+魂の次元+ (by としべえ)

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サリン事件がわたしたちに問うこと - 麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑執行に思う

※オウム真理教が起こした事件によって亡くなった方のご冥福と、その親族の方およびさまざまな被害者の方の心の安寧を心よりお祈りします。

今日2018年7月6日、オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑が執行されたとの報道がありました。

この記事では、地下鉄サリン事件を頂点とするオウム真理教が引き起こした事件と、それがわたしたちの社会に投げかけた問題点について、簡単に振り返ってみたいと思います。

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地下鉄サリン事件の恐怖

1990年3月20日の午前8時ごろ、通勤ラッシュ時の現東京メトロの5つの車両において、猛毒の神経ガス・サリンが大量に散布され、13人が死亡、被害者は6300人にものぼる、未曾有の無差別殺傷事件が発生しました。

どうしてこのような事件が起こってしまったのか、これを防ぐ術はなかったのか、同じような事件が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか。考えるべきことは多岐に渡りますが、簡単に答えが出る問題ではありません。

この事件についてはさまざまな書籍が扱っていますが、作家の村上春樹氏が事件に遭遇した多数の方々にインタビューした
「アンダーグラウンド (1999 講談社文庫)」
をここではおすすめしておきます。

事件を体験した一人ひとりの方の恐ろしさが伝わってくる良質のノンフィクションと言えます。

可哀想な智津夫さんが起こした大惨事

ネット上ではウィキペディアの
麻原彰晃 - Wikipedia
というページによって、麻原彰晃こと松本智津夫氏の人生を概観することができます。

智津夫氏が、兄弟ともども水俣病の認定されなかった被害者であった可能性も分かり、また、その家庭の貧困の影響もあって、さまざまに屈折して育ったであろうことを読み取ることもできます。

氏は日本在住のチベット人政治学者ペマ・ギャルポ氏を通して、ダライ・ラマ14世と何回かの接見をしていたようですから、チベット仏教の理解について、相当に評価されていただろうと考えられます。

また、現実にオウム真理教という教団をあれだけの規模にするだけの、ある種のカリスマがあったことも間違いなく、そうした彼の宗教的才能が「歪んだエゴ」と結びついたとき、日本史上類を見ない、恐ろしい事件が起こることになったのでしょう。

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松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ

地下鉄サリン事件の前年1994年6月27日には、松本サリン事件が発生していました。
松本サリン事件 - Wikipedia

ところが長野県警は、この事件がオウム真理教によって起こされたものであることをまったく察知できず、無実の市民を冤罪で苦しめることしかできませんでした。

オウム真理教が公安によって捜査されていたことも考えれば、警察の発表を鵜呑みにして冤罪報道を繰り返したマスコミも含め、この事件をオウム真理教と結びつけることができず、地下鉄サリン事件の発生を許してしまった日本の危機管理体制の甘さにはなんとも言葉がありません。

日本社会のこうした危機意識の薄さが、のちの福島第一原発事故にまでつながっているのではないかと考えるとき、これからの日本でどんな事件が起こることになるのか、はなはだ不安にもなってくるところです。

オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方

松本智津夫氏が死刑になったと聞いて、悪人が処刑されてよかったと思う方も多いかもしれません。

日本の社会では「仇討ち」的な考え方が普通に存在しますから、そうした被害者感情や被害者に対する同情心というものを抜きにこの問題を考えるすることはできません。しかしながらそれだけで問題の解決とすることはできません。

犯罪の問題は、個人の問題であると言うよりは、社会全体の問題であり、ヒトという種の問題でもあります。

明治以降の近代化の流れの中で、とくに敗戦後の経済至上主義が全国に行き渡る過程の中で、日本に住むわたしたちは資本主義を至上の原理として受け入れ、欲望を刺激し、物質的に豊かになることだけが幸せに至る道であるかのような錯覚に溺れるまでになりました。

もちろん少なくない皆さんがそれが「錯覚」にすぎないことに気づき、その「錯覚」から抜け出すためにはどうしたらよいかを考えながら生きていることも間違いないでしょう。

そのとき、智津夫氏が率いるオウム真理教は、彼の「歪んだエゴ」によって破滅的な結果しか生み出せなかったのですが、その根底には「物質主義こそが最高」という「錯覚」に対抗するという「正しい」といっていい目的があったことは忘れるべきではありません。
(ここで、水俣病というものが、戦後の経済成長の中で先駆け的に起こった公害事件であり、国家ぐるみで隠蔽を図り、責任逃れを企んだ事件であることも確認が必要な点でしょう)

ぼく自身は、智津夫氏にもオウム真理教にも特別に積極的な興味はありませんが、彼らがベースにしたインド的・仏教的な価値観は全く普遍的なものであり、そうした価値観から生まれてきた共通した禅やマインドフルネスといった考え方が、資本主義の最先端であるアメリカのビジネスマンの間でもてはやされている逆転現象にも、注意を向ける必要を感じます。

行き過ぎた物質主義の弊害について、そしてそれをどうしたら緩和できるのかについて、少しずつでも検討していくことが、私たちには必要なのではないかと思われるのです。

以上、オウム真理教が引き起こした事件について、簡単な総括などできるものではありませんか、いくつかの問題点から検討してみました。

最後までお読みいただきありがとうございます。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

2018年7月7日追記: 智津夫氏の精神状態などについて

ジャーナリストの江川紹子氏が
自らの保身に執着し、責任を弟子に押し付けた麻原:江川紹子「オウム事件風化の弊害」 | ビジネスジャーナル
というページ中の、
「自らの保身に執着し、責任を弟子に押し付けた麻原」
という見出しの段落で、法廷や公安審査委員会の弁明の場で、智津夫氏がどのような「言い逃れ」を行なったかを書いています。

この部分の記述を読むと、智津夫氏は「正常な」精神状態にあり、自分の罪を隠すためにさまざまな意図的に「言い逃れ」をしているように思えますから、それを根拠に江川氏は、智津夫氏についてはこれ以上本人から事実が語られることはない、したがって死刑執行するのは正当である、という主張を行なっています。

江川氏の立場は、オウムなどカルトによる被害者の救済を第一とするもので、その立場に共感する多数の方はこの意見に賛成するだろうと思います。

けれども、ここで改めて強調したいのは、
「カルトは悪であり、それを法律で処罰すれば事件は解決する」
というような短絡思考では、社会全体が抱える大きな問題の解決につながらない、という点です。

江川氏は記事の続きで次のように述べています。

オウムのようなカルト事件の「再発防止」のために必要なのは、教祖の心の内を探るより、信者たちがいかにして教団に引き寄せられ、どのようにして心を支配され、犯罪の指示にも唯々諾々と従ってしまったのかを知ることだ。彼らの心理状態を解明し、いかなる防止策が考えられ、どの段階でどのようなサポートが有効なのかを研究することは、「再発防止」のために肝要といえる。
 つまり、「再発防止」のために死刑回避を、と主張するならば、その対象は教祖である麻原ではなく、弟子たちであるべきだ。12人の元弟子のなかには、深い反省悔悟の中にある者もいる。彼らに対して恩赦を施し、無期懲役に減じて生涯仮釈放を行わず、獄の中でもっぱら「再発防止」のための調査研究に協力させるなど、社会に奉仕させるという道は、大いに検討してよいと思う。

智津夫氏からは何を聞こうとしても無駄なのだから、元幹部のうち反省しているものから、もっときちんと聞くべきだというこの提言は、まったく的を射たものと言えましょう。

智津夫氏だけでなく、元幹部六名の方の死刑が執行された今となっては、この提言が現実的ではなくなってしまったことを残念に思います。

  *  *  *

さて、「智津夫氏は世間知によって言い逃れをしていたのだから、終始正常だったのだ」という江川氏の説明について、もう少し考えてみましょう。

智津夫氏は密教的世界観に通じ、修行を通してその世界観を実際に生きていたものと考えられます。

こうした特殊な意識状態では、善悪というものについて、世間的な捉え方とはまったく違った考えを持つようになります。

法律で禁じられているかどうかとか、社会的・倫理的に見てどうかといった尺度で物事を測るのではなく、この世界の本質である宇宙原理から見て、何をなすべきか、何をなすべきでないか、というような具合に智津夫氏は物事を考えていたはずです。

残念ながら智津夫氏は、一定程度の境地には至ったものの、不幸な幼少時以来の大きなカルマを精算することができず、いわば「魔境」に入り込み、しかも大きなカリスマを持っていたために、このような大きな事件を起こしてしまい、法廷で裁かれるに至りました。

そのとき、彼がもう少し現実をありのままに見るだけの精神力を持っていたならば、「自己保身」としか考えられない「言い逃れ」を法廷で行なうような「不様」なことにはならなかったでしょう。

しかし、地下鉄サリン事件を起こしたときにはすでに彼の精神状態は常軌を逸したものであったと推測されますから、のちに法廷で証言をするころには、世間的な意味で受け入れられうるような「正常な」発言をできる精神状態にはなかったものと考えられます。

つまり、

  • 『世間的には「言い逃れ」としか言いようのないこと』が世間に通用するはずだ

と彼が考えていたと思われること自体が、彼の精神の「異常性」を示しているということです。

そしてそれが「世間に通用しない」ことが分かると、彼は「自閉的」な状態に落ち入り、世界との接触のチャンネルを閉ざしてしまったのですから、ここでも彼の精神が「異常」な状態にあったことは明らかでしょう。

もちろんこの「異常性」を客観的に証明することなどできませんが、逆に言えば

  • 彼は「正常な」精神状態にあったから、裁判はすべて公正に行なわれたのだ、

という主張も客観的に証明できることではなく、結局すべては、人間という不完全な存在が行なう、恣意的なゲームであることを逃れ得ません。

被害者感情や世論というものの存在を考えれば、智津夫氏らオウム真理教元幹部の死刑執行を一概に否定することはできませんが、オウムのようなカルトの問題を考えるためには、社会自体が持っている「他者排除の論理≒カルト性」を抜きにはできません。智津夫氏ら事件を起こした方々には「間違った道を行ってしまった」ものとして、罪をつぐなっていただくと同時に、わたしたち直接は関係がないものとしても、

  • 人間という存在自体が抱える「暴力性」や「自己中心性」

という問題ときちんと向き合っていく必要があるはずだと思うのです。

その意味では、江川氏が批判している「オウム事件真相究明の会」の森達也氏の著書
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は丹念に元信者にインタビューを重ねた労作であり、カルトの問題を考える上で大きな参考になります。

特に
下巻
エピローグでの中川智正氏との面会、手紙によるやりとりは印象的でした。

坂本弁護士一家殺害事件の実行犯であり、サリンの製造も担当していた中川氏も、智津夫氏と同日に死刑執行がなされましたが、オウム真理教の「洗脳」から覚めた中川氏は、どこにでもいる普通の人間であり、自分の罪とまっすぐに向き合う正直な方に思えます。

先に取り上げた江川氏の提言のような形では、中川氏から直接カルトの実像についてもはや聞けないことは、残念な限りです。

以上、まとまらないまま、また説明も大幅に不足していますが、書けることを書ける範囲で追記しました。

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