+魂の次元+ (by としべえ)

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高知県立大学の図書大量処分と「叩きやすいモノを叩くヒトたち」との付き合い方について

高知新聞の2018.08.17付けの記事
高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却 貴重な郷土本、絶版本多数|高知新聞
を見ると、高知県立大学が図書館の新設にともない、社会的に問題となるような「愚行」を行なったかのような印象を受けます。

ネット上には、この「愚行」を高らかに批判する人が、少なからず存在しました。

ところが実際には、この大量の図書処分に関して高知県立大学は、批判の余地はあるにしても、適切と呼びうる範囲の運営を行なっているようです。

この件について少し詳しくみた上で、「叩きやすいモノを叩くヒトたち」との付き合い方について考えてみましょう。

高知新聞の主張と、それに対する反論

高知新聞によれば、

約3万8千冊に及ぶ図書や雑誌を焼却処分にしていたことが8月16日までに分かった。中には戦前の郷土関係の本をはじめ、現在は古書店でも入手が難しい絶版本、高値で取引されている本が多数含まれている。焼却せずに活用する方策をなぜ取らなかったのか、議論になりそうだ。

ということで、この記事を見る限り、

  • 高知県立大学では適切な図書の管理がなされず、貴重な県民の財産が不用意に処分されてしまった、

という印象を受けます。

この件について、しんざきさんという方が、
「考え無しに愚行を行う組織」という物語と、それに魅惑される人たち: 不倒城
という記事を書いており、高知県立大学側の説明も検討した上で、

(除却書籍の選択についての是非などで)批判の余地が全くないとまでは言えないが、大学図書館の業務としては普通に考えられる範疇であり、間違っても愚行とまでは言えない

という結論を出してらっしゃいます。

そして、

どうも、「組織は考えなしの愚行を行うもの」という先入観というか、「愚行を行う組織に対する強い攻撃意識」みたいなものがどっかにあって、高知新聞もそれを煽ることを狙ってああいう記事を書いたんじゃねえか、という感触があります。

ともおっしゃっています。

また、地方で10年以上古書店勤めをする閻魔堂さんという方は、
高知大学蔵書の処分は適切だったのではないか|閻魔堂|note
という記事で、処分された書籍について詳しく検討した上で、

  • 現在は古書店でも入手が難しい絶版本、高値で取引されている本が多数含まれている

という高知新聞の主張に疑問を投げかけています。

さらに匿名で、
高知県立大焚書記事問題を元大学図書館の人視点から
という記事を書き、図書館における蔵書の扱いを丁寧に解説してくださっている方もいます。

この方は、

高知新聞の記事見出しを見たとき、ツタヤ図書館的なことを
大学図書館がやるなんて世も末だなと衝撃受けたけど
記事読んだら通常業務してるだけじゃねーか!と二度びっくりした

と書いています。

そして、高知新聞は2018.08.22付けで
プロセス入念に焼却 図書3万8000冊処分の高知県立大|高知新聞
という「訂正」といってもいい内容の記事を出すに至ります。

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「分かりやすい悪役を見つけた時はちょっと立ち止まった方がいい」

今回の高知新聞の記事は、「事実を報道する」のではなく、「架空の問題」を作り出すような「捏造記事」と言っていいものでしょう。

しばさきさんの記事タイトル

  • 「考え無しに愚行を行う組織」という物語と、それに魅惑される人たち

にもあるように、こうした「捏造された物語」にも、つい乗っかって批判をしたくなる傾向というものが人間にはあるようです。

しばさきさんは、

組織は時に愚行を行うものですし、愚行を行った組織は批判されるべきです。そこに文句はないんです。

ですが、「一見すると愚行のように思える行動」が本当に愚行なのかどうか、本当に考え無しで行われたものかどうかについては、それなりに慎重な検討が必要です。「本当に無能な人たちの集まり」という組織は、もしかするとあるのかも知れないですが、そこまで多数を占めている訳ではありません。大体の組織の大体の措置は、専門職の人たちのそれなりの検討と思考を経て決定されているものです。

そしてメディアは、時として「組織の検討や思考」を四捨五入して、組織の行為を「考えなしの愚行」っぽく演出することがあります。我々が「一見すると愚行のように思える行為」を見かけたとして、その裏に何かしらの検討はなかったのか、その検討が四捨五入されていないか、それらも含めて愚行といえるのかどうか、ということはちょっと考えてもよいのではないかと思うのです。

と述べた上で、高知県立大学の大量図書処分の詳細を検討してくださりました。

また、
何かを攻撃する時ガードを極端に下げてしまう現象と、はてなスターの仕組みについて気になること: 不倒城
という記事においては、

・「体育館のエアコンについて、2500円電気代がかかるので使うな」という教育委員会からのお達しがきた、とツイートした人がいた
・脊髄反射で教育委員会への批判が集まりまくり、RTもされまくった
・Togetterまとめに大量のブクマが集まった
・箕面市長の否定によってデマと判明した

という例を挙げて、「分かりやすい悪役を見つけた時はちょっと立ち止まった方がいい」という提案をしています。

しばさきさんのこうした落ち着いた態度は、おっちょこちょいなところがあるぼくも大いに見倣いたいところです。

「叩きやすいモノを叩くヒトたち」とどう付き合えばいいか

「考え無しに愚行を行う組織」というステロタイプな情報に反応して、その情報を吟味することなく、安易に「批判」してしまうというようなことは、人間の自然な傾向としてありがちなことです。

これは人間が、

  • 「論理」よりも「感情」で動かされやすい、

ことによるのでしょう。

判断を誤らないためには、

  • 「感情」を揺さぶられるような情報に触れたときには、その情報が妥当なものかどうか、一歩立ち止まって考えること

が有効な対処法になります。

一方で、こうした冷静な対処ができない人も少なからず存在します。

「分かりやすい敵」を見かけると、感情的になり反射的に叩いてしまう人たちです。

こうした「叩きやすいモノを叩くヒトたち」の存在はどう考えればいいのでしょうか。

まず、「叩く人たち」が目立つということは、

  • 社会的なストレスが高い

ことを示していると考えられます。

「組織の中で理不尽なストレスにさらされている人」は、「理不尽な組織」という物語に過度に反応して、「叩く」反応を取りやすくなるでしょう。

「弱者を叩く」傾向も、「自分が弱者として疎外されている」ことの裏返しの反応として説明できます。

次に、現に「叩く」反応を起こして感情的になっている人には、

  • 理性的な言葉は届かない

ということがあります。

人間というものは、ちょっとしたことで腹を立てたりするものですが、まさに腹を立てているそのときに、理性的にその人を説得することが難しいのは、みなさんご自分の経験でよく分かってらっしゃることでしょう。

感情的になっている人に論理的な言葉を投げかけるのは、たいていが逆効果となります。

まして、「叩く」反応を起こしている人に対して「揶揄」するような言葉を投げるのは、「火に油を注ぐ」以外の何ものでもありませんから、うまい方法とは言えません。

どうしても何か言いたい場合は、相手には届かないのを承知の上で、一人言的に、客観的な分析か、同情の言葉を発するくらいにしておくのが賢明に思えます。

相手の感情が落ち着いたところで、冷静に話ができる場面があれば、「反射的に叩く」ことの問題について説明することもできますが、その場合も過大な期待は持たないほうがいいでしょう。

「感情的になりやすい」人には、自分が「感情に支配されている」ということを客観的に把握することが難しいからです。

結局「叩く」人とは適切な距離を取るのがベストに思えます。

このように考えるてみると、

  1. 自分が「叩く人」にならないように気をつける、
  2. 「叩く人」とは適度な距離を取る、
  3. 「叩く人」の存在は、社会的な「ストレス指数」として有用である、

ということが言えそうです。

社会の「高ストレスな状況」を変えられるようなビジョンと力を持っている方には、どんどんそれを実践していただきたいところですが、そうした具体的な行動が難しい場合には、

  • 「叩く人」が増えないように、そして
  • 「叩かれる人」にならないように、

自分の言動に気をつけるのが次善の策ということになるのではないでしょうか。

てなところで今回はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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