+魂の次元+ (by としべえ)

肩から力を抜いて、自由に楽しく生きる。

すごいぞ学習院大学、あまりにパンクで本音丸出しの卒業生謝辞が「賛否両論」で台風の目に!?

4年前に開設された学習院大学の国際社会科学部は今年度はじめて卒業生を送り出しました。

第一期生の卒業式は3月20日に予定されていましたが、新型コロナウイルスの流行により中止され、当日卒業生代表として謝辞を述べるはずだった2人の学生の謝辞がホームページで公開されています。
*1

その2人の卒業生のうちの小堀奈穂子さんの謝辞が、日本の形式主義にあからさまな「攻撃」を加える内容であることから、
「超パンク!*2」という賛辞と共に、
「ネオリベの申し子。教育の失敗*3」という否定的な意見が並んで見うけられます。

称賛と失望が渦巻く台風の目となった小堀さんの謝辞とはどんなものなのか、確認して見ることにしましょう。

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日本社会の形式主義を痛烈に批判

 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。

これが問題の謝辞の第一段落です。

日本社会の形式主義を痛烈に批判しています。

横並びを大切にする主流派のみなさんは眉をひそめるに違いありませんが、自由な表現を愛するぼくとしては、ここでの主張にはまったく同感です。

強いていえば言葉の選び方が強すぎる気はしますが、それもあまりに大人しすぎる日本の若者へのアンチテーゼとして考えれば、十分理解できるものです。

経済的自由の大切さと自分への感謝

 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。

第二の段落では、経済的な自由の大切さを述べた上で、その実現のために努力をした自分にこそ最も感謝すべきだ、という極めて利己主義的な主張がなされています。

上級国民は犯罪を犯しても優遇され、下級国民はこき使われるだけで、その上でヤルヤル詐欺で税金を取られっぱなしという日本の現実を考えれば、この主張も本音を隠さずさらけ出したというだけのことであり、必ずしも「エゴイスティックな最低の意見」とは言えない気がします。

たとえばこれを、次のように言い換えてみたらどうでしょうか。

「現在の日本の状況では、国民への社会的な保障は決して十分とは言えない。そんな状況を変えて社会に貢献したいからこそ、まずは自分の経済的自立が大切だと考え、そのために私は勉強してきた。勉強する環境を用意してくれた大学関係者にはもちろん感謝するが、その環境を使ってしっかりと勉強してきた自分にこそ一番の感謝をしたい」

つまり「誰だって自分がかわいい」という当たり前のことを、小堀さんのようにストレートな表現でいうか、それとも社会に受け入れられるような形でいうか、という話にすぎないと思うのです。

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いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー

 すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

この段落では、自分の成績の優秀さをはっきりと述べた上で、けれども自分の大学生活が決して順風満帆ではなかったことが述べられています。

彼女のように自己主張の強い人が、周りから様々な圧力を受けることは、日本社会では当たり前のことでしょう。

そうした逆風状況の中で、支えてくれた人の存在に言及しているにも関わらず、その人にすら感謝の言葉を述べることができない彼女の姿には、痛々しさを感じざるを得ません。

けれどもそうした逆風を跳ねのけて、これだけの主張を続けることができる彼女のパワーには感服します。

眠った世界の否定と言論の自由

 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。

次の段落では再び、日本の形式的社会への厳しい批判の言葉が繰り返されます。

日本社会の保守的なあり方に心底うんざりしている気持ちがありありと伝わってきます。

 私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。

言論の自由という言葉を使ってまで、卒業生の謝辞としてこのような過激な主張を展開した彼女の心の深い闇を思います。

「感謝を述べるべき皆さま」はいなくても、「支えてくれた人」には感謝の言葉を伝えられたはずですが、形式主義の攻撃に全力を使ったためにそれは忘れてしまったのでしょうか。

それとも、その感謝は個人的に伝えるべきものなので、卒業生の謝辞には必要ないと考えたのでしょうか。

大学側の注釈

小堀さんの謝辞は、そのあまりにパンクな内容から、内部でもそのまま出していいのか議論があったようです。

ホームページ上には、次のような注意書きがついています。

卒業生の内、二名の方から謝辞を寄せて頂きました。
※謝辞①*4は内容が謝辞として相応しくないといった意見もありましたが、本学部は多様な意見を尊重しオープンな開かれた学部でありたいと考え、原文のまま掲載しております。ただひとつ私たちが願うのは、本学で学んだ学生の皆さんが幸せな人生を歩み、願わくば社会に貢献して欲しいということです。

成績優秀なために卒業生代表に選ばれた小堀さんの謝辞が、日本の慣習からかけ離れたものであることは、誰の目にも明らかでしょう。

そもそも小堀さんに謝辞を頼んだ時点で、どんなものが提出されるかは大学側の担当者には分かっていたと思われます。

そのとき彼女の意見がこれほどの過激さをもっているにも関わらず、学部として自由を大切にする姿勢を見せたことは、とても素晴らしいことだと思います。

小堀さんの若さ故のむき出しの利己主義を大学側が許容し、彼女も含めすべての学生が「幸せな人生を歩み、社会に貢献する」ことを願う姿勢には、日本社会の未来への希望の芽を見ることができます。

新型コロナ騒ぎによって日本も世界も先行き不透明な情勢ですが、小堀さんの謝辞を取り巻くこのような社会環境の中の、よい変化を育て、悪い面に流されることなく、力強く生きていきたいものではないですか。

てなところで、この記事はおしまいにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

権利は何かの対価なの? (2020.3.27 追記)

日野瑛太郎 (id:dennou_kurage)さんがこちらの記事で小堀さんの謝辞について批判的な意見を書いています。
https://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2020/03/25/191905

1つ目の批判は、小堀さんの

私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。

という主張に対して「権利は何かの対価として付与されるものではない」のだと言うのです。

確かに憲法で保障される人権について言えば、それは国民の全てが享受するものであり、何かの対価として与えられるものではありません。

その点では日野さんの主張は正しいものです。

けれども小堀さんが書いているのは法律的な意味での権利の話ではなく、形式主義に落ち入って身動きがとれない社会に物申し、その意見を大学側に受け入れてもらう成果を自分は勝ち取ったのだ、ということでしょう。

「おかしいことをおかしいという権利」は日野さんの言うとおり誰にでもあります。

けれども「おかしいことをおかしいと卒業生代表として謝辞において述べる権利」はまさしく小堀さんが自分の努力によって勝ち取ったものです。

この点を読み誤っては、小堀さんの主張の肝心な点を見逃すことになってしまいます。

彼女の主張は、
「きちんと努力することで成果を出せば、社会を変革する力を持つことができる」
ということにあるはずなのですから。

2つ目の批判は「老害的な視点」についてです。

大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

と、先の主張に続いて述べて、「自分の権利ばかり主張する人間」を小堀さんが批判している点については、日野さんのおっしゃる通り、「ブラック企業経営者や政府の保守派のお偉方並みの老害」と言えなくもありません。

これについては小堀さんが今後見聞を広め、弱者の権利を擁護することこそが社会全体の安定につながり、ひいては自分の経済的安定にもつながりうることを理解していただけたらよいなと考えます。

そうした広い視野にもとづく価値判断ができるようになったときには、彼女の持つ能力の真価が発揮され、新しい日本社会を作る素晴らしい人材として活躍していただくことができるはずだと思うのです。

短い謝辞の中に過激な主張を盛り込んだために誤解されやすい文章になってはいますし、いろいろな視点からの批判が可能だとは思いますが、全体として評価に値する内容であり、これを大学側が自己検閲せず社会に向けて発表したことは、全体主義化が進み、重苦しい空気が立ち込める現在の日本社会において、一筋の光となりうる喜ばしい1コマに違いありません。

頑張ってる女性同士が励まし合える世の中であってほしい (2020.3.29 追記)

小堀さんの「逆張り謝辞」に対し、治部れんげさん*5というジャーナリストの方が「噛みついて」いらっしゃいます。

20年以上前に、学習院大学よりは随分「程度のよい」大学を卒業され、出版業界という男社会で苦労されてきた治部さんには、小堀さんの「今風のおふざけ」がお気に召さなかったようです。

「歴史」を知り先達をリスペクトすることの大切さ

学習院大学卒業生代表の謝辞、

「甘えた女」に対する苛立ちが伝わってくる。

20年以上前に大学を卒業した女として思うのは、

その程度の努力と能力で、あなたが今の場所に到達できたのは、過去にあなたより100倍優秀な女性が積み重ねてきた仕事の成果があったからだよ。

ということです。

twitterより

小堀さんの主張自体は特に女性に限った意見ではないのですが、女性比率が高い学習院大学の謝辞だったこともあり、治部さんの目には、
「優秀な女性が甘えた女性を批判する」
文章として写ったようです。

ここでは元々の小堀さんの意図は考えずに、治部さんの捉え方に沿って考えてみましょう。

治部さんは別のツイートでこうも言っています。

私は

「女性は事務職です(男性は企画か営業)」と不動産会社の人事がしたり顔で言い、

大手金融総合職の新卒100数十名中、女性は1人という性差別が当たり前だった時代に、

運よく出版社で正社員として採用され、男性並の賃金をもらい、育成されてきました。

男女平等が甘くないのは肌で知ってる。

twitterより

このように女性にとって厳しい歴史があってこそ、女性の権利が守られる今の時代があるのに、現在の若者はそんなことも知らずにのうのうと自分の権利にあぐらをかいている、というわけです。

小堀さんの「形式だけの謝意など持っていない、努力した自分にこそ感謝する」という主張に対して、
「今の社会を作ってきた先達に感謝する気持ちくらい持ったほうがいいのでは?」
という疑問を投げかけているものと考えれば、治部さんの意見にも一理あります。

ここで小堀さんの主張に戻って考えると、「頑張った自分は偉い、頑張ってない周りの人間はダメ」という単純な成果主義・能力主義については、再考すべき点があるでしょう。

現在の日本はアメリカ型の成果主義・能力主義の導入を急ぎすぎ、社会に多大な歪みを生じています。

喧伝される成果・能力主義を若い小堀さんが素朴に主張することは、そうした利己主義的な主張が、社会の不安定を助長するおそれを考えれば、もっと広い視野からの再考をお願いしたいところです。

けれども残念なことに治部さんの主張も成果・能力主義の枠内にとどまっており、しかも先達が後輩に「苦言」を投げかける以上のものではありません。

批判の投げ合いではなく、建設的な提案が増えてほしい

治部さん自身が能力主義の男社会の中で、今も日々苦労なさっているだろうことは想像に難くありません。

その余裕のなさが、今回の「厳しい」ツイートを生んだのでしょうから、その点は深く同情いたします。

けれども、ジャーナリストの肩書きを持つ方が、ツイッターのような半ば公の場で、感情にまかせて「社会の後輩」をののしるような「批判」を行なうことは、せっかくご自身が作り上げてきた「良き社会」を破壊しかねない行為だと思うのです。

批判すべきと思ったことを批判するのは必要なことでしょう。けれどもそれは、もっと平等で能力の違いがあっても誰もが幸せに暮らせる新しい社会の実現につながるような形の、建設的な提案をともなうものであってほしいのです。

日本の未だ旧態依然の男性中心社会を変えていくためには、頑張っている女性同士が励まし合える環境が必要でしょう。

もちろんこれは、女性だけの問題ではありません。能力主義が蔓延する社会で疲れ果てている状況は、女性も男性も同じことです。

共通の問題意識を持つすべての人々が、お互いに励まし合い、建設的な提案を出し合うことができる社会の実現に向かって、一歩いっぽ歩み続けたいものだと思うのです。

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